2010年 06月 29日 ( 1 )

                         納品に西区へ行った。
                         考えてみればここは四間道の近く、30年ほど前に
                         歩いたことがあった。

五条橋
慶長年間に家康が清洲から居城を名古屋に移したいわゆる「清洲越し」
の際に架けられた橋で、現在のものは昭和13年の築造。ただし擬宝珠
は慶長7年当時のものを復元した。清州から移された木製の橋当時の
擬宝珠は名古屋城に保管されている。
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上流は名古屋城へ
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下流は名古屋港へ続く堀川、昔に比して随分水が綺麗
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五条橋の西側には古い商店街・円頓寺(えんどうじ)が連なる
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橋のたもとに小さな祠がある
近在の民家の屋根に乗っていた屋根神さまを移したものとのこと
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 名古屋城築城とともに城下町は計画的に作られ,熱田の湊と名古屋城を
結ぶ堀川には,当然のことながら,水運を利用する商家が立ち並んだ。
商家の玄関は,物資の集散を行うため堀川に向かい,土蔵が家の裏手に
作られた。これが,堀川に沿って土蔵が立ち並ぶ四間道のゆえんである。
 四間道の語源は,1700年(元禄13)に元禄の大火といわれる火事により,
町屋・寺社が焼失した。大火の後、防火の目的と旧大船町商人の商業活動
のため、道路幅を四間(約7㍍)に広げたので、その名前がついたといわれて
います。石垣の上に建つ土蔵群と軒を連ねる町家が通りに面して建ち並んで
いる現在の四間道の景観は、元文年間(1740年頃)に形成されました。
<昭和61年名古屋市町並み保存地区指定>

伊藤家
川伊藤と呼ばれた当時の商家「伊藤家」も木造瓦葺きの住宅とともに土蔵が
残されています。土蔵は防火壁の役割も持たせてあり、幸運にも戦火で焼失
することなく現在も当時の面影が残されている。
(松坂屋の伊藤家と区別するため川伊藤と呼ばれた)
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四間道側の伊藤家の土蔵
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ここは名古屋駅から1㎞ 名古屋城へ1.5㎞の場所である
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通りの民家とガラスの店
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屋根神さま
疾病流行の恐怖から身を守るために天王信仰が起こり津島神社が祀られ、
この地にあった大火から、火ぶせの神である秋葉神社が、出征兵士の無
事を祈って熱田神宮を祀るようになった。
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以前来た時にはいくつかの屋根神さまが見られたが今は↑のみ、ここを曲がる
と路地奥に、地中から甦ったという生命力にあやかりたいと
子守地蔵尊
1858(安政5)年頃、井戸を掘っていたところ、地中から30㎝ほどのお地蔵さ
まが出てきた、それには1710(宝永7)年という刻銘があり、発見より150年も
前に作られたことになる。かつて、庄内川が氾濫したときに上流からこの地に
流れてきて埋もれてしまったと推測
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浅間神社
境内に樹齢300年を超すクスノキやケヤキが7本あり市の保存樹に指定され
ている。
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当時の建物をそのまま利用した喫茶店・文化教室・蕎麦屋などがある
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浅間神社で参拝していたご婦人に声を掛けられ、案内された所が彼女のお店
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城下町が今も当時のまま残されて観光地化されておらず、街を歩いている人は
皆無でした。歴史的にも重要な街並みですし、充分観光として楽しめます。あま
り知られていないのが残念です。当時の建物そのままで営業している喫茶店で
休憩されてはいかがでしょうか。
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by katsu-makalu | 2010-06-29 16:25 | Comments(2)